かつて世界の人口の一割に相当する命が失われた人類史に刻まれる凄惨な大戦争も後三十年足らずで世紀を跨ぐ。
これだけの時間が経過してしまえばその大惨禍も過去の記憶に存在を許されたものとなり、それを肌で経験した者もまた次々と天寿を全うし、もはや極少数派となりつつあった。
だが、現在でもこの大惨禍が生み出した大小様々な悪意の樹からは尽きる事のない人が抱く負の感情を養分として次々と災厄、惨劇と言う名の果実を実らせ、熟成の為に最小でも千の単位、最大であれば万にも及ぶ人血と人命、そして悲しみと憎しみを必要とし続けた。
その為に最盛期には七十億にも届こうとしていた世界人口であったが、大戦争そしてその後の終わりなき殺戮や紛争の数々に一時期は四十億を割り込むほど激減した。
この激減に危機感を募らせた世界各国は団結して紛争の調停や時には力ずくでの鎮圧、強引とも取れる(事実当時はあまりにも強引極まりない手法により世界世論が猛反発したものだった)治安回復に努めた結果、ようやく減少に歯止めをかけ、現在では緩やかな回復傾向にある。
それを下らぬ理由で殺し合い減らしあいを繰り返し現在はと言えば、四十億を行ったり来たりを繰り返している。
しかし、この世界人口の激減は21世紀初頭より問題となっていた人口問題とそれによって付随する食糧問題、環境問題など山積する課題への一つの解決策を示す事が出来た。
最もそれは苛烈極まりない副作用を同時にもたらす劇薬であった事は、皮肉と言う言葉ですら片付けられない深刻な現実を歴代の為政者達に突きつけていた。
そんな世界は未だに激流に翻弄され続けられる中、日本、冬木市・・・
そこも21世紀初頭から比べると町の様子は様変わりしつつある。
再開発が完了していた新都は新たなる再開発計画が十年前に提案されたのだが、そのような再開発に無縁であったはずの深山にも再開発の声が上がりつつあった。
最もそれも昔ながらの地元を愛する住民からの根強い反対の声に停滞が続いているが。
その深山の旧円蔵山に建つ柳洞時に一人の老婦人がいた。
温和な空気と古希所か米寿を超えて数年前遂に卒寿を迎えたと言うのに未だ闊達な生命に溢れた彼女の名を柳洞大河(旧姓藤村)と言う。
もともと地元で昔から顔役を務める極道の三代目として生まれた彼女だったが、そう言った出自など何処吹く風とばかりにある意味極道よりも自由奔放に人生を文字通り謳歌し、青春時代は剣道にのめり込み『冬木の虎』の異名と数多くの武勇伝を生み出した。
(普通なら女性は忌み嫌う所なのだが、本人はいたくこの異名を気に入っていた)
卒業後は何を思ったのか資格を取って教職に付き、思い立ったら直ぐ暴走という性格を恐れられもしたが、それ以上に生徒を何よりも誰よりも思いやれる気さくな人柄と、豪快な性格から定年まで生徒達に慕われ続けた。
その証拠に、定年となって既に三十年近く経つと言うのに、今でもあらゆる世代の教え子達からの数え切れない数の年賀状とお歳暮が毎年の様に届いている。
そんな彼女も教職が一段落した所で、親の代から家族ぐるみでの付き合いの柳洞零観から求婚の申し出を受けて結婚。
その後は冬木では知らぬ者はいないとまで言われるおしどり夫婦として仲睦まじく、三男一女の子宝にも恵まれると言う誰が見ても幸福な人生を歩んでいる・・・筈だった。
いや、傍目から見れば彼女は間違いなく幸福だ。
決して人様からみれば褒められたものではないが、彼女は実家の生業を一度とて恥と思った事は無い。
厳しいが一本筋の通った祖父も『気は優しくて力持ち』を地で行く父の事も口にはそう出さなかったが尊敬していたし大好きだった。
もしかすれば自分が組を継いで名実共に三代目となっていた、そんな未来もあった筈だ。
無論だが、夫にも何一つ不満は無い、ある筈が無い。
学生時代自分に告白をし、その為に組の若衆に蛸殴りされたにも係わらず平然としてその想いをずっと持ち続けてくれた。
それから時が経ち、改めて結婚を申し込まれた時は涙が出るほど嬉しかった。
子供達だって誰一人例外になる事もない自慢の子供達だ。
長男は夫と自分に強く似すぎたのか豪快かつ我が道を行く性格で、彼女の実家の後を継いで三代目に就任、今では後見役として六代目にまで引き継がれた組の精神的支柱となっている。
次男、三男は自分や夫よりも義弟に性格が似ており大学まで出た後、出家して次男はこの柳洞寺の現住職、三男も別の寺に婿養子に迎えられてその寺の住職として活躍している。
長女はと言えば自分に性格が近かったが剣道に限定せずスポーツ全般に打ち込み、プロまでは行かなかったが社会人でもそこそこ活躍、結婚して平凡だが、団欒な家庭を築いている。
孫やひ孫にも恵まれているし、これで幸福でないのであるならば何が幸福なのかと問いかけたい程である。
仕事にも私生活にも何一つ不服も不満も無い筈なのだ・・・だと言うのに彼女の心には何かぽっかりと穴が開いていた。
いつからこの心に開いた穴を自覚したのか彼女にも判らない、だが、ふと気付けば心の穴からたとえ様の無い喪失感があふれ出し涙が止まらなくなってくる。
一番ひどかったのは結婚してから二十数年後、深山町にある、とある武家屋敷の解体工事に立ち会った時だった。
その武家屋敷は彼女が物心付いた時からあったもので詳しくは知らぬが、祖父の代から管理していた物件だったのだが、相当な曰く付きだったらしく、誰一人買い手が付かずかと言って解体も出来ずに放置され、荒れ放題だった廃墟で、子供の頃は怖いもの見たさで友達を引き連れて探検ごっこをしたものだった。
その後、父や祖父と揉めに揉めたが衛宮切嗣がこの屋敷を購入、そこで生活を始めたのだが数年後、病没。
その後は空き家の筈だったのだが、奇妙な事にそれから三十年近く家屋も庭もとても無人とは思えないほど整備され決め細やかに手入れされており時には『座敷童子のいる家』と呼ばれたり時には『ブラウニーの住み家』と呼ばれもした事で冬木の都市伝説と呼ばれるほどの名所となったのだが、その後、屋敷は今まで手入れされていたのが嘘の様に荒れ始め、老朽化もひどく遂に取り壊しが決定された。
その解体工事に大河は父に頼み込み無理を言って立ち会った。
何故なのかは今でも判らないが、何故か見届けなければならない、そんな半ば使命感に囚われての事だったが屋敷に重機が入り取り壊しが始まると眼から涙が流れ始める。
涙は、取り壊しが進むに連れて大粒になり、ぼろぼろと零れ落ち、最後には人目を憚らず声が枯れるほど号泣した。
突然の事に偶々同行していた息子に大慌てだったが自分でも涙を止められず結局息子に付き添われて退席した。
無論だがその後、息子や夫からどうしたのかと問われた。
だが、どうしてあれほど人目を憚る事無く号泣してしまったのか自分でもわからなかった。
取り壊れてる屋敷を見て何か自分にとって大事なものが跡形も無く消えてしまうような喪失感に囚われ、気が付けば涙が止まらなくなり最終的には自分でも信じられないほど大泣きをしてしまった。
それでも理由がわからないでは家族を不安にさせてしまうと思い『子供の頃からあそこでよく遊んだりしていたし、あそこにはかつて自分の初恋の人が住んでいた事もありその思い出が頭によぎっても思わず泣いてしまった』と弁解した。
嘘は言っていない。
切嗣に憧れを抱いていたのは事実だし、夫もそんな姿に珍しく妬いてくれたのも今となっては笑い話で子供たちも知っていたからそれで納得してくれた。
だが、事実の全てを言った訳でもない。
言った所で家族が信じてくれるはずもないし、何よりも当の本人ですら何故なのか全く理解できなかったのだから。
場所は変わり欧州連邦はイングランド州、州都ロンドン。
かつての大戦争における最重要防衛拠点として開戦直後から終戦間際まで最前線の要を担い続け、終戦直後は『守護の都』とも呼ばれた。
その後、欧州連邦首都の座は欧州復興のシンボルとして開戦の場となったベルリンに譲ったが、ロンドンは実質上の首都として、内部の諍いが続きいつ崩れてもおかしくない建国初期の連邦を支え続けた。
そのロンドン郊外の広大な敷地に立つ邸宅に一人の老婦人がいた。
若かりし頃は美人であると容易に推察できる整った目鼻の顔立ちと老齢でありながらその眼光は鋭い。
彼女の名はバルトメロイ・ローレライ。
表向きは大英帝国時代から貴族バルトメロイ家の二代前の当主だが、その本当の顔は魔術協会・・・はるか昔より世界の裏で存続していた魔術師達の自衛組織・・・のこちらも二代前の院長。
歴代バルトメロイ当主の中でも屈指の実力を持つ魔術師として若かりし頃は『現代最高峰の魔術師(ザ・クィーン)』とまで呼ばれ魔術協会最強の聖女の呼び声も高かった。
そんな彼女の名は現在においても名声に彩られていた。
表では大戦争時には義勇兵を率いて国連軍と共にテロリスト集団に敢然と立ち向かった女傑であるだけでなく、戦後は壊滅同然の欧州に私財を投じて復興を推し進めた事で欧州復興のシンボルとして一時は時の人となった。
裏では『現代最高峰の魔術師(ザ・クィーン)』の名に恥じず、自身が指揮する聖歌隊『クロンの大隊』隊長としてロンドン魔導要塞防衛の要のみならず反抗作戦にも前線に参加。
戦争終結に多大なる貢献をなした英雄の一人として、表にも裏にもその名は歴史に深く刻まれている。
私生活では表向きは、結婚後直ぐに大戦争に巻き込まれ死亡した夫との間に息子が生まれ、彼もまた母の名に恥じる事無く表でも裏でもバルトメロイ家を盛り立てている。
息子も高齢となり表向きの当主の座は子に譲ったが、魔術師としては未だ現役で『クロンの大隊』隊長として前線に立つ日々を過ごしている。
本来息子程の実力も名声双方を兼ね備えた魔術師であれば、協会の中枢に名を連ねてもおかしくは無いのだが、本人に過剰な野心は無く、前線の指揮官にこだわり続けている。
最も現在の協会上層部に息子に面と向かって対抗出来る気骨の者は誰一人おらず隠然とした影響力を持つのもまた事実であったが。
そんな全てが成功された人生を歩んでいるように周囲に思われているバルトメロイだが、そんな事はない。
彼女には現在においても悔いている事があった。
それは息子の実の父親の事。
表向きは大戦争で夫を失ったとあるがそれは真っ赤な嘘。
息子の実父は大戦争を真に終わらせた英雄の一人で、元々は過去の様々な行き違いから殺したいほど憎んだ男だった。
彼自身に罪は全く無く、バルトメロイの八つ当たりにも近かったのだが、それが正しき事だと彼女は思い込んでいた。
紆余曲折を経て誤解も解けたが、それから何を思ったのかその男をバルトメロイへの婿入りを画策し、婚前交渉まで結んだ事で未婚のまま彼の子を終戦間際に妊娠、無事に出産も済ませたが、事情を知らぬ有象無象の輩から出産前後から父親の事をしつこく問い詰められた。
家にはどうにか説得(と言う名の脅迫)で既に理解させていたので、とやかく言ってきたのは表裏問わず彼女目当て・・・正確には名家であるバルトメロイ家狙いのハイエナ達だった。
面倒だったが、始末するほどでもなく適当に無視しながら男を正式にバルトメロイの婿として迎え入れようとしていた矢先に事態は急変する。
男が生まれ育っていた地から半ば追い出されるように姿を消したのだと言う。
直後、こちらに姿を現した彼は人には過ぎる力と座を得た反動だと説明し、自分や生まれる子供にもいらぬ災いがもたらされる事を厭い、定期的に顔を見せるがバルトメロイへ婿入りはしないと断言、その後は世界を放浪しながら律儀に顔を見せては息子の成長を見届けるそんな生活を送る事になった。
男は魔術師の最大のタブーである神秘の隠匿を平気で破り、混乱著しい戦後の世界を駆け抜けていく。
だが、それは魔術協会を敵に回す事と意味し、幾度と無く男の捕縛と抹殺が議題に上がるようになる。
それを止めていたのは戦後、協会建て直しの為に院長に担ぎ上げられた男で彼女は表向きこそ対立しているように見せかけていたが、その実、院長に協力しながらも同時に男に協会を刺激しないよう説得も続けてきた。
しかし、男はそれを無視してその後も神秘を駆使して人々を救い続ける。
その後、十五年の時限就任だった男は退任、彼女が就任すると協会は男を追討する事を強行に主張、表向きは追討支持派であったバルトメロイには止める術はなかった。
苦渋の決断で息子に実の父を捕縛、叶わぬようであるならばその場での抹殺も許可しつつも、どうにか助けられる術を模索する日々であったがそれも全て無駄に終わる。
程なくして男は死んだ。
それも助けられた側の子供達に刺し殺される形で。
協会上層部は男の死を喜んだ。
魔術のタブーを犯し続けた大罪人の死を喜んだ側面もあるが最大の理由は男の異能にある。
剣を無から創り上げて実用に耐えられるのみならず神秘の解放すら可能なさしめるその異能はなんとしても手にしたかったのもそうだが、何よりも未確認情報では大禁呪である固有結界を越える異能を使えると言う事もあり、なにがなんでもその秘密を手にしなければならなかった。
それによって協会にかつての栄光が舞い戻る事を信じて疑っていないようだった。
しかし、その解明は遅々として進んでおらず、男の遺体は今でも協会本部の最深部に厳重保存されている。
そんな男の遺体を彼女は片手で数えるほどしか眼にしてはいない。
だが、それは見れないのではない。
院長であり当事から協会中興の祖とも呼ばれ讃えられていた彼女がその権力と名声を乱用すれば、眼にするのは容易な事である。
見れないのではなく、見たくない。
より正確に言えば、自分には遺体であってもこの男に顔を合わせる資格が無いと自らに言い聞かせていたからだった。
実際一度息子が収容した男の遺体を眼にした時、その眼から涙がとめどなく溢れ出し声を押し殺して咽び泣いた。
皮肉だったとしか言い様が無い。
男を永遠に失ってようやく心の底から自覚したのだ、『自分はこの男を・・・シロウ・エミヤを心の底から愛していた』と。
きっかけは憎悪から始まった、とりあえず和解した後、子を作る事を強要したのも最初は家の為だった。
だが、男の本質を知るに従い、彼女自身気付かぬ内に彼に惹かれ自覚せぬ恋慕の情を育んでいった。
何故もっと早く自覚しなかったのか、自分の想いに?
何故もっと強引に男を引き止めなかったのか?
恨まれても、憎まれても構わない、それこそ鎖で繋いでバルトメロイの邸宅に監禁してでも、もしくは脅迫してでも止めようとしなかったのかと静かに自分を責め立て、そして泣いた。
唯生きていて欲しかった、息子の為ではなく自分の為に生きていて欲しかった。
この時院長権限を乱用して彼の遺髪を二房、遺品からコートと銃だけ接収して自分の手元には遺髪を一房だけ残りは息子に手渡した。
その日の内に息子は男の育った地へと飛び立ち一日経たずに舞い戻ってきた。
無論だがその手には遺品の数々は無く、目的の人物達に手渡されたのだと推察出来た。
そして・・・その日から彼女の日々は空虚になった。
傍目からはバルトメロイ家と協会二つの運営を完璧にこなしているようにみえるのだが、息子や身近なものから見ればそれはただ機械の様に決められた事を行う人形・・・言葉は悪いが抜け殻にしか見えなかった。
しかし、人形ないし抜け殻となっても彼女のセンスは衰えを知らず、協会は一時の崩壊の危機を完全に脱し、家も隆盛を極め、更なる繁栄が約束されようとしていた。
だが、男の死から二十年後、協会の建て直しにも目処がついた事を理由に院長職を辞任、後任には自分の前任者を推薦して、それが遂行されたのを見届けてから彼女は表舞台からは完全に姿を消す。
元々『クロンの大隊』は数年前に息子に隊長の座は譲り渡していたが、院長を辞任してからは家督をも息子に譲るとロンドン郊外の屋敷に隠居してしまった。
老齢に近いとはいえ、隠居には早すぎると彼女に対して、協会上層部は復帰を幾度となく促したが、どのような求めにも首を縦に振る事も無く、また説得を依頼された息子もまた、『母の意志を尊重すべきである』の一点張りで協力する事も無く、それでもしつこい復帰要請を断っていく内にやがて諦めたのか、復帰の依頼は来なくなり、それからの彼女はただ静かに邸宅で時を刻み、日々を過ごし続けていた。